東日本大震災救護に参加して:宮城県石巻市で活動

日本赤十字社長崎原爆病院

真辺 悟

 

 311日は、夜勤のため、午後になっても布団の中でごろごろしていた。16時前にTVをつけてみると、全局が一斉に地震や津波の報道を行なっている。一体何が起きたのか、どういう状況なのかを掴むことができぬまま、ただ唖然として放映され続ける惨事を見ていた。その後出勤すると、看護部長から「出発の日時は不明であるが、日赤長崎県支部救護班第1班として準備を行い、自宅待機」と指名を受けた。

私は以前からDMATに興味があり研修にも参加をしていたので、地震発生直後から被災地へ行き、力になりたいという気持ちが強くあった。指名を受けた時は正直嬉しく、やってやろう、と考えていた。大震災に対する不安感や恐怖心を感じたのは、今まで見たことがない津波の映像を見てからだった。自分がどこに行きどんな活動をするか分からない状況で、津波に巻き込まれる街の風景や、気仙沼の街全体が燃えている映像をずっと見ていた。その後は「とにかくやらなければいけない」と自分を奮い立たせるように、出動準備を行なった。

救護班第1班は宮城県石巻市に行くことが決定し、救護物資を車に積み込み、地震発生後から3日目に長崎を出動した。陸路で2日がかり、途中雪に見舞われながらも無事に石巻に到着した。

石巻赤十字病院には、既に全国各地の赤十字施設から救護班が集合しており救護活動を行っていた。病院内に入ると雰囲気が一変し、泥まみれの人があちこちのロビーに寝ており数十人の高齢者が、床にシートを敷いた所に寝ていた。被災者の中には活気がなく焦点の合わないような顔の表情をした人々が何人もいた。私は「ここが被災地なのだ、自分をしっかり持とう」と自分に言い聞かせた。

災害対策本部から活動内容の説明を受け、私達は避難所を巡回することになった。その夜、ロビーに寝ていた人たちを近隣の施設に移したいと本部から要請があり、私たちも協力した。搬送先は体育館で、床に布団が敷いてある所に150200人もの高齢者が寝かされていた。私達はその空気に圧倒され、言葉をかけることも何か聞くこともできなかった。この人たちがこれからどうなるのか、誰も分からない状況だった。

 翌日からは救護所を巡回診療し、血圧が上昇している人、津波に流され皮膚が熱傷のようにただれてしまった人、家族を捜しまわっている人など様々な人と接した。できることは自分たちの持っている物資を配ることと、診察を行い、少しでも安心感を持ってもらうことぐらいだった。

東松島市役所へ報告に行くと、懸命に状況を把握しようと頑張っている保健師や看護師・介護士の姿があった。少量ではあったが、オムツなどの物品を渡すと泣いて喜んでくれた。彼女たちがそんなに喜んでくれるようなことが本当にできたのか分からないが、私たちがここで動いている意味が少しはあるのかと感じた。

実際の派遣は6日間で、短く感じたが、被災者に比べると、テント生活も氷点下での生活もなんてことはないと感じた。車や家族が集う自宅が流され、未だに家族の行方もわからない人が何万人といる。少しでも被災者の望みがかなってほしいと願うことしかできない。

現在も全国の赤十字病院から継続して救護班が派遣されている。私は、できればもう一度被災地へ行き、できるかぎりの救護活動を行いたいと思っている。

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